清原の逮捕から考える「帰属意識」についての一考

元プロ野球選手の清原和博が2月2日夜、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されたというニュースを見ました。

僕の世代で小学生の頃は清原はちょうど巨人にいた時期で、松井秀喜や高橋由伸など華やかなメンバーでプロ野球を盛り上げていたのを思い出しました。僕自身は横浜ベイスターズ(当時)のファンでしたが、民放では巨人戦が毎日のように放映されていたので松井や清原などが活躍する巨人戦を観るのがとても好きだっただけに、今回の報道はとても残念な気持ちになります。

今回の事件について、ツイッターや様々なところで「やっぱり」「なんとなく予想していた」という声が沢山上がり、清原の人間性について触れられる記事を目にしました。もちろんそういった部分も関係あるのでしょうが、僕が思うに、現役引退後の所属意識・帰属意識の曖昧さ、自分が何者であるかという自己正体性の確立が薄いところに精神的な不安定感が募り、今回のような事件を引き起こしたのではないかと考えています。

これは現役を引退したスポーツ選手に限らず、すべての人にとって、”現役”を引退したり、あるいはそれまで帰属意識のあった組織から離れた時に、「自分とは何者であるか」というアイデンティティを確立していることはそのあとの人生にとって非常に大事なことのように思われます。死ぬまで一生の間所属できる組織というのは多くはないので、培った能力や人間関係、そこで再発見した自分自身という存在を振り返りながら自我を再構築し確立していくことが現役時代に求められ、それこそが自我の崩壊を防ぐことができる手段だと考えます。

こういった話になると心理学者ユングやフロイトに触れざるを得ないのですが、ここでは省略します。

 

日本はとても帰属意識の強い文化性を持った国かもしれません。しかし特定の組織や分野への過度な帰属意識というのはそのほかの選択肢を排他的に捉えてしまう危険性をも孕んでいるのではないでしょうか。

会社でもそうですが、特にスポーツにおいては、例えば野球=人生という強い意識は、現役引退後に何かしらの理由でそこに携わることができなくなった場合に自己のアイデンティティを見失ってしまうかもしれない。そういった意味では、元サッカー選手の中田英寿は現役引退後に”サッカー以外の人生””サッカー以外の自分”を探しに世界を旅しましたが、そこで新しい自分の可能性に気づいたり、世の中の出来事に関心を持つきっかけを得られるという点で参考になるケースなのかもしれません。

帰属意識や所属意識というのは人間のパフォーマンスを高める際に効果的に作用する可能性があるという点で有効ですが、過度な帰属意識は排他性を生み、その他の可能性を制限してしまう危険性があります。「私は何者であるか」というアイデンティティについてはもちろん所属している組織による影響を多分に受けますが、自我の形成は特定の組織からだけではなく、様々な影響の中で形成されていくものなので、生から死までの人生の総合として考えていく必要がある。あるいは現役を退いた人にとって、「私はこういう者です」「今私はこういうことをやっています」と言える新たな帰属意識が必要になってくるのではないでしょうか。

思うに、一生涯において帰属意識を持てる組織というのは「家族」なのかもしれない。そういった意味では、清原は奥さんへの愛情や子供への教育に情熱を注ぐことで精神的な安定を得られたのではないだろうかと、素人ながら考えてしまいます。